厄除けや弾除けなどに強くそのユニークな名称とも相まって注目の存在であるサムハラ神社。大阪の街中に鎮座する本宮は有名ですが、奥の宮は遠く離れた場所にひっそりと位置しています。
なぜ二つの神社は離れているのでしょうか。呼ばれた人しかたどり着けないとの噂の根拠とは。などいろいろと興味は尽きません。
この記事では、サムハラ神社の奥の宮とは何か、そのご利益、由来、そして訪れるための具体的なアクセス方法まで、初めての方にもわかりやすくご紹介。
静けさと自然の中で神聖な空気を感じる準備を整えて、ぜひ最後までお読みください。
本記事の内容
- サムハラ神社奥の宮の由来と歴史
- 御祭神とサムハラの意味
- 大阪本宮との関係と役割の違い
- 奥の宮への行き方と参拝時の注意点
サムハラ神社の奥宮とは?

サムハラ神社とは

サムハラ神社とは、大阪市西区に本宮を構える神社で、特に災難除けや弾除け、身体健全、延命長寿といった守護の力があるとされている神社。
その名は一般の漢字で表記できない特殊な「神字(しんじ)」に由来し、古代からの神秘的な力が込められているとされます。
起源は岡山県津山市加茂町の日詰山にある古祠(こし=古いほこら)に遡り、戦前から「サムハラ大神」の名で信仰されてきました。戦後、信仰の中心が大阪へと移され、1950年に大阪中之島に神社が創建されました。
その後、現在の西区立売堀へと移転され、現在に至ります。つまり、大阪のサムハラ神社は、岡山にある奥の宮から分霊された本宮として存在しているというわけです。
大阪の本宮は市街地にあることからアクセスしやすく、仕事帰りや休日にふらりと立ち寄る参拝者も多数。
一方、岡山の奥の宮は山道を登ってたどり着く必要があり、「神様に呼ばれた人だけが行ける」とも言われるような神聖な雰囲気をたたえています。
サムハラ神社は都市型神社と自然信仰の融合ともいえる存在であり、単なる観光地やご利益スポットではなく、日本人の心の奥にある神への敬意と自然への畏敬を体現した場所なのです。
御祭神とご利益

サムハラ神社の主祭神は、「造化三神(ぞうかさんしん)」と総称される三柱の神々
・天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ) ・高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ) ・神皇産霊大神(かみむすびのおおかみ)
これらの神々は『古事記』に登場する、日本の神話体系における最初の神であり、宇宙の中心的存在、または「生命の根源」を象徴するとされています。
あらゆるものを「生み出す力」を司ることから、創造や繁栄、安産、事業発展といった様々なご利益があると信じられています。
実際には、無病息災、厄除け、延命長寿、家運隆盛、交通安全など、日々の生活を守るための祈願が多く寄せられており、その範囲は非常に広範。
授与品のなかでも有名なのが、「御神環(ごしんかん)」という指輪型のお守り。この御神環は非常に入手困難であり、現在では授与を一時停止していることもありますが、持つことで災難から守られたという体験談が数多く語られています。
戦時中にはこの「サムハラ」の神字が刻まれたお守りが弾除けとして兵士に配られたという記録もあり、その信仰の歴史は現代に至るまで脈々と受け継がれています。
このように考えると、サムハラ神社のご利益は単なる言い伝えではなく、長い歴史と人々の信仰心によって裏打ちされた、実績ある神徳のあらわれであると言えるでしょう。

サムハラの意味

この「サムハラ」という言葉には明確な定義があるわけではなく、さまざまな説が存在しています。
一つ目の説は、サンスクリット語に由来するとされるもの。「サムハラ」は、インドの古代言語であるサンスクリット語の「saṃvara(サンバラ)」から来ており、「守護」「平和」「幸福の保持」「調和」などの意味があるというもの。
この解釈に基づくと、「サムハラ」という音や言葉そのものが災いから身を守る力を持つ神聖な響きであるとされ、護符としての使用が広まったと考えられます。
二つ目の説は、古代朝鮮語に起源があるというもので、「サム」は「生きる」、「ハラ」は「しなさい」という意味を持つとされています。
この語源解釈からは、「生きなさい」「命を全うしなさい」という強い生命力を象徴する言葉として、困難な時代に生きる人々への励ましや導きのメッセージが込められていると見ることができます。
さらに民間伝承の中では、「サムハラ」という音を唱えることで不浄を払う、病気を遠ざけるといった力があると信じられてきました。
江戸時代の記録や明治期の軍人たちの間でも、サムハラの文字を肌身離さず持ち歩くことで身を守るという習慣が存在したことが知られています。
このように、「サムハラ」という言葉は単なる音や表記ではなく、音霊(おとだま)や言霊(ことだま)としての意味を持ち、長い年月をかけて多くの人々の信仰と体験の中で育まれてきたのです。
神社で使用される「サムハラ」の神字も、一般的な漢字とは異なり、神秘的で霊的な意味を込めて書かれた特別な文字とされ、書写そのものが神聖な儀式とされています。
たとえ語源がひとつに定まらなくても、多くの人々がこの言葉に救いを見出し、その力を信じてきたという歴史は、サムハラという言葉自体が持つ特別なエネルギーと意味の深さを物語っています。
奥の宮が岡山にある理由

このようなスピリチュアルな力を宿すサムハラ神社ですが、なぜ大阪の本宮から離れた岡山に存在しているのか。その背景には、歴史的な経緯と信仰の広がりが密接に関わっています。
起源は、岡山県津山市加茂町中原の山中にあった小さな古祠にさかのぼります。ここには古くから「サムハラ大神」が祀られており、地元の人々の間で静かに信仰が続けられていました。
この地に生まれ育った田中富三郎氏は、日清・日露戦争に従軍し、戦場で幾度となく危機に直面しましたが、「サムハラ」の護符を携えていたことで無事に生還できたと確信し、以後この神への信仰を深めていきます。
戦後、田中氏はこの霊験をより多くの人々に伝えるべく、私財を投じ1950年に大阪市中之島に「サムハラ神社」を建立。これが現在の大阪本宮の前身です。
その後、都市開発の影響で現在の大阪市西区立売堀へと遷座され、今に至ります。一方、岡山の古祠はそのまま「奥の宮」あるいは「元宮」として残され、今でも地元の人々や全国から訪れる参拝者によって大切に守られています。
このような形で、信仰の出発点である岡山と、広く信仰を広げる拠点としての大阪に分かれることとなりました。ただ地理的に分かれただけではなく、「原点と普及」という役割がそれぞれに与えられているのです。
都会の中で参拝しやすい大阪本宮では、日々多くの人が祈願を行い、ご利益を求めて訪れます。
一方で、奥の宮である岡山の神社は、自然に囲まれた静寂な地にあり、より深い精神的な祈りや静かな内省を求める人にとって理想的な場所といえるでしょう。
こうした信仰の二極構造は、むしろ多様な人々のニーズに応えた形であり、サムハラ信仰が柔軟に、そして力強く現代まで継承されてきたことを示しています。
大阪と岡山に分かれているという事実は、分裂ではなく「共に存在する」ことで信仰をより豊かにしている証しだと考えることができるのです。
サムハラ神社の奥宮への行きかた

田中富三郎との関係

サムハラ神社の奥の宮と田中富三郎氏の関係は、この神社の歴史や意義を理解する上で非常に重要なポイントです。彼の人生と信仰は、サムハラ神社そのものの成り立ちと深く結びついています。
田中富三郎氏は1868年、岡山県津山市加茂町に誕生。幼いころから信仰心が篤く、特に地元に伝わる「サムハラ大神」に強い信頼を寄せていたといいます。
彼が若き日に従軍した日清戦争・日露戦争において、命の危機に直面した際も、護符として身に付けていたサムハラの力によって幾度も助けられたと語られています。
この経験から、彼は「信仰は万益あって一害なし」という信念を持ち、戦後に古祠を再建し、さらに大阪に神社を建立する決意を固めました。
昭和10年に岡山の古祠を再建し、昭和25年に大阪市中之島にサムハラ神社を創建。その後は現在の西区立売堀に遷座されました。
また彼は、地元の学校に図書館を建てたり、奨学資金を提供するなど、地域社会への貢献にも積極的でした。
私財を投じて小判型のお守りを製作し、多くの人に無償で配るなど、現代で言うところの社会的企業家としての一面も持っていたのです。
彼の努力と信仰があったからこそ、今日のサムハラ神社が存在すると言っても過言ではありません。奥の宮に足を運ぶことで、田中富三郎氏の思いや信仰の根源に触れることができるでしょう。
現在では、本宮と奥の宮の両方に参拝する人も増えており、それぞれの場所に宿る気や雰囲気の違いを感じることができるといいます。
都市型の本宮では効率的な祈願が可能であるのに対し、奥の宮では自然との一体感を通じて、より深い精神的なつながりを感じられるという声もあります。
呼ばれた人だけが行ける理由

サムハラ神社の奥の宮について語られる中で、しばしば耳にするのが「神様に呼ばれた人しかたどり着けない」という表現。これは決して迷信ではなく、実際に多くの参拝者が体験した不思議なエピソードが背景にあります。
この表現は奥の宮の立地や環境、そして人々が感じる霊的な空気に深く関係しています。奥の宮は山中にひっそりと鎮座しており、明確な案内板が少なく、ナビや地図だけでは迷ってしまうこともしばしば。
そのため「たどり着けなかった」という声も後を絶ちません。
例えば、参拝を予定していた日に悪天候で断念せざるを得なかった、あるいは道に迷って諦めたが後日改めて挑戦するとたどり着けた、といった経験談が数多く語られています。
このようなことから、「呼ばれないと行けない」と言われるようになったのです。
また、奥の宮に着いたとたん、空気が変わった、体が軽くなった、あるいは涙が自然とあふれてきたというような感覚を覚える人も少なくありません。
それほどまでに、サムハラ神社奥の宮は特別なエネルギーに包まれていると感じられる場所。
このため、単に観光気分で訪れるのではなく、自分自身の心の準備や信仰心を整えたうえで向かうことが推奨されます。そうすることで、神様とのより深い縁を感じることができるかもしれません。
訪れる際の注意点

サムハラ神社奥の宮を訪れる際には、一般的な神社参拝とは異なるいくつかの注意点があります。特に山の中にあること、また神聖な空間であることを考慮し、準備や心構えをしっかりしておくことが大切。
まず、注意が必要なのが服装。奥の宮までは階段や坂道を歩くため、ヒールや滑りやすい靴は避け、運動靴や登山靴などしっかりした靴を選びましょう。
また、道中は木々が生い茂っており、虫が多いため、長袖や帽子の着用もおすすめ。夏場には虫除けスプレーの持参もあると便利です。
次に、天候の確認と時間管理も重要。山中は平地よりも天候が変わりやすく、雨が降ると道が滑りやすくなります。午前中に訪れる方が安全であり、日没前に下山できるよう、余裕を持ったスケジュールを組むことが推奨されます。
また、奥の宮はあくまでも信仰の場であるため、騒いだり、無断で立ち入り禁止区域に入ったりするのは厳禁。カメラ撮影も、他の参拝者や神聖な空間への配慮を忘れずに行いましょう。
御朱印や授与品に関しては、奥の宮では対応していません。そもそも誰も常駐していません。もし希望がある場合は、事前に本宮や公式サイトで確認しておくとよいでしょう。
このように、サムハラ神社奥の宮を訪れる際には、心身ともに整えて、謙虚な気持ちで参拝することが何よりも大切です。
奥の宮への行きかた

サムハラ神社奥の宮は、岡山県津山市加茂町中原に位置し、自然豊かな山の中に鎮座しています。アクセスは容易とは言えず、しっかりとした事前準備が必要。以下では、具体的なアクセス方法を紹介します。
車で向かう場合、中国自動車道「津山IC」で下車し、県道6号線を北上するルートが一般的。目印となるのは「金刀比羅神社」。
この神社の横に奥の宮があるため、カーナビには「岡山県津山市加茂町中原899」または「金刀比羅神社駐車場」と入力するのが正確。なお「900-3」では津川ダムが表示されてしまうため、注意が必要です。
駐車場に車を止めた後は、参道を徒歩で登ります。参道には石段があり、数百段を登る必要があるため、動きやすい服装と靴を選ぶことが大切。夏場は熱中症対策も忘れずに行いましょう。
公共交通機関を利用する場合、最寄り駅はJR「美作加茂駅」。駅からは徒歩で約30〜40分かかるため、タクシーを利用するのも一つの手。ただし台数が限られているため、事前に予約しておくと安心です。
道中には案内板が少ない箇所もありますが、「展望台」や「金刀比羅神社」の看板を目印にするとスムーズに進むことができます。
神社にたどり着いた後、さらに奥には「元宮」と呼ばれるかつての社殿跡地もあります。しかし現在は石段が崩れているため、お社のあった場所に近づくことはできません。
このように、サムハラ神社奥の宮への参拝は、多少の困難を伴う旅かもしれません。しかしその分、たどり着いたときの感動や神聖な空気は格別で、まさに「神様に呼ばれた」と感じる体験になるでしょう。
まとめ:サムハラ神社の奥の宮とは
- サムハラ神社は大阪に本宮、岡山に奥の宮がある
- 奥の宮は岡山県津山市加茂町の日詰山に位置する
- サムハラ神社の起源は奥の宮にある古祠にさかのぼる
- 主祭神は造化三神で、創造・繁栄・守護を司る神々である
- サムハラの言葉はサンスクリット語または古代朝鮮語が由来とされる
- サムハラの神字は特殊な「神字」で一般の漢字では書けない
- 戦時中には弾除けのお守りとして信仰された歴史がある
- 奥の宮は「神に呼ばれた人だけが行ける場所」とも言われる
- 本宮は都市部にあり、日常的な参拝に適している
- 奥の宮は自然に囲まれ、霊的体験を求める人に向いている
- 御神環という指輪型お守りが有名で、授与は限定的
- 創建者・田中富三郎は信仰と社会貢献に生涯を捧げた人物
- 奥の宮へは車または徒歩でアクセスできるが道のりは険しい
- 現在の奥の宮の近くには「元宮」と「展望台」が存在する
- 信仰の原点と現代への普及という両輪で成り立つ神社体系である





